「テンポイント」の悲しい出来事から「勝ち逃げ」へ!(シゲ)

 「流星の貴公子」と呼ばれた「テンポイント」は栗毛の綺麗な馬で、額に流星があったので私も大好きな馬でした。

「父コントライト」、桜花賞馬の「母ワカクモ」と日本古来の血が入った、期待の馬だったのですが、この年は「トウショウボーイ」・「グリーングラス」と共に3強と言われてました。

 

新馬戦から「もみじ賞」・「阪神3歳S」・「東京4歳S」・「スプリングS」と5連勝、「皐月賞」で「トウショウボーイ」に敗れて2着、「ダービー」は「クライムカイザー」の7着、三冠最後の「菊花賞」も「グリーングラス」に敗れて2着と三冠には縁がなかった馬です。

しかし5歳時は「京都記念」・「鳴尾記念」・「天皇書・春」・「宝塚記念」2着・「有馬記念」等7戦して6勝2着1回と、ほぼパーフェクトで6歳時(現在5歳)は海外遠征の予定で、1月22日の「日経新春杯」に出走しこの時のハンデは66.5Kgと、今では考えられない過酷なものでした。

 

(忘れられない1977年有馬記念です。)

 

それは調教で80Kgでも大丈夫だった同馬は、遠征前の壮行レースとして「日経新春杯」に出走、4コーナー付近で骨折して折れた骨が皮膚から突き出すほどの重度ものでしたが、安楽死処分を考えるもファン達と何とか助けて種牡馬にと考えた関係者の思いから、33名もの医師団を集めて23日に手術をしたのですが、その後一時は回復に向かった時期もあったのに蹄葉炎を発症して3月5日に亡くなったのです。

 

特に私は華麗な貴公子の様なイメージが強く大好きな馬でしたので、毎年「日経新春杯」の時に思い出すのが、この悲しい「テンポイント」のアクシデントです。

無くなった当日は声を出してオイオイと泣いてしまったのも、鮮明に記憶に残っています。

 

この事件をきっかけに「勝ち逃げ」の研究を真面目に考えるようになりましたし、人生の転機となったのもこの事からでした。

「勝ち逃げ倍額購入法」と「ココモ式購入法」の勉強と実践をスタートさせたのは、この年の4月からでした。